5月5日−端午の節句に、男の子の無事成長と立身出世を願って立てられる豪壮な武者絵のぼり。
かつては至るところで庭先にひるがえっていましたが、近年はあまり見られず、それとともに生産者も数少なくなってきています。
この武者絵制作の伝統を守り、育てるとともに、多くの方々に見て頂くことにより、郷土の手仕事の美を後世に伝えたいと設立したのがこの「大畑武者絵資料館」です。
当資料館は、この地に300年前に建てられた民家を、当時の面影を残しながら改装したもので、内部には大畑家で収集・保存していた江戸時代から現代に至る武者絵のぼりをはじめ、大畑家制作ののぼり、武者絵皿、壺、屏風、型紙、また当家に伝わる古文書、下野手仕事会の作品、他地で制作されたのぼり等100点余りを展示した全国でも珍しい武者絵資料館です。
※館内に展示してあるもの(一部除く)は他のページにて掲載しておりますので御確認下さい(代表作品・作品紹介ページ)
開館時間 資料館 9:00〜17:00(11・12月は9:00〜16:00)
売 店 9:00〜18:00
休館日 毎月第3日曜
私と大畑家の関係は深い。
今から30有余年前、この家を訪れ、没落の一途をたどっていた武者絵のぼりを黙々と描き続けていた野州男児ー2代目耕雲(力三)氏に会った若き日の感激は今でも忘れることができない。
風格ある江戸家の民家と武者絵のぼり関係の展示品の数々は、科学万能、合理化時代の今日、ややもすれば忘れがちな日本の心を実に見事に私たちに想い起こさせるものがある。

尾 島 利 雄
下野手仕事会顧問 民俗研究家

八幡太郎義家 平安時代末期の将軍。姓は源でであるが、石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と称した。前九年の役・後三年の役で活躍し、東日本のおける源氏の地盤を確立した。部下の功を私財をもってねぎらっため人望を集め、百姓が田畑を競って寄進するようになった。院には武人最初の昇殿を許され、天下第一の立派な武士とされている。
源 義経(1159〜1185) 源氏と平氏とが合戦した時の花形武将。幼名は牛若丸で京の五条橋で弁慶を打ちすえ従臣にしたといわれている。兄頼朝の挙兵に参じて平家の軍を次々と破った。義経の一生は日本人の心に「判官びいき」という言葉を生み、美男子な誠の武将として今日にかたり継がれている。
上杉 謙信(1530〜1578) 戦国時代の将軍。越後(新潟県)守護代の子として生まれ、下野(栃木県)・越後を制して春日山城に入って統一をはかる。そして北上してきた武田信玄の軍と信玄が塩を送った話は「敵に塩を送る」という語源として有名なである。
武田 信玄(1521〜1573) 戦国時代の将軍。甲斐(山梨県)の守護・信虎の長子。風林火山の旗を背に信濃(長野県)の諏訪氏を滅ぼし、小笠原・村上氏を攻めて、上杉謙信と川中島で戦った1561年の戦いでは、上杉謙信と直接対決したとされている。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」を座右の銘としたと伝えられ、国内の治山治水事業にも功績を残している。
那須 与一  那須資高の十一子で名は宗高。文治元年(1185)、源平屋島の合戦で、平家の船上に掲げられた扇の的を射落としたことにより名を上げる。この功により、武蔵・信濃・若狭・丹波・準中の5カ国に荘園を与えられたと言われる弓の名人。
太閣 秀吉(1536〜1598) 安土桃山時代の武将。足軽の子に生まれて天下統一を成し遂げ、立身出世の人物とされている。織田信長に仕えて各地で武功をたて、信長没後は大阪城を築城している。1585年には関白、翌年には太政大臣に任ぜられた。刀狩りをはじめ封建支配体制の基礎を築いた。
加藤 清正(1562〜1611) 安土桃山時代の武将。幼少から豊臣秀吉に仕え、賤ケ丘の戦いに武功をたてて七本槍の一人といわれた。1588年に肥後(熊本県)の領主となる。朝鮮の役には先峰として転戦し、虎狩りの伝説は有名となっている。
徳川 家康(1542〜1616) 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで石田三成らを破り1603年征夷大将軍に任ぜられて大江戸幕府を開いた 。大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし幕府260余年の基礎を確立、東照大権現の諡号を下賜。
鍾馗(しょうき) 玄宗皇帝が病にかかり、高熱と悪夢にうなされていた折、終南山よりかけつけた鍾馗という豪勇無双の大男が豪剣を振って病魔を払いのけたため、皇帝の病は一朝にして回復したので皇帝はいたく喜んで、夢に見た鍾馗を画匠呉道子に描かせて邪鬼払い神として端午の節句の祝品として描かれる様になった。
高砂

熊手を持った翁(おきな)と箒を持った媼(おうな)が相生(あいおい)の松の下に立つ図柄は、高砂図の代表的なもの。砂浜に老夫婦に鶴、亀、松など、夫婦の長寿と和合、家庭の永年の繁栄とを祈願して描かれている。



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